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 道内外で活躍している地元ゆかりの人たちに、十勝への思いを語り、つづってもらいます。




楡木啓子さん*帯広でエッセー学んだ日本放送作家協会会員*藤原ていさんの教室で書く素晴らしさを体感 2010/03/06
優秀賞を受けた第3回銀華文学賞の授賞式=2006年、東京
優秀賞を受けた第3回銀華文学賞の授賞式=2006年、東京

 1993年の春から4年間、私は帯広のエッセー教室へ通った。
 当時、一人娘が大学に入学し、良くも悪くも娘べったりの母親であった私は、情けないことに「空の巣症候群」に陥っていた。ある日、「藤原ていさんのエッセー教室」という新聞記事が目に飛び込んできた。札幌にあまたの教室があろうに、ひかれるように申し込んだのは、ていさんの「流れる星は生きている」を思い出したからだ。戦後、旧満州(現中国東北地方)から26歳の作者が、6歳、3歳、1カ月の幼子を連れ、文字通り死線をさまよいながら、引き揚げて来た実体験に基づく小説である。その人に私は会いたくなったのだ。
 最初の2年間は600字エッセーを書く。600字を超えても空白を残しすぎてもいけない。内心、そんなに都合よく収まるはずがないと思い、案の定、収まらなかった。何を書こうかということにも頭を悩ませた。やっと書き上げたものは、5人の先生が2人一組で講評してくれるのだが、「それがどうした」と無情にもバッサリ切られることも多々あった。途方に暮れた生徒たちは、互いの傷を癒やそうと帰路喫茶店に寄り、気炎を上げた。そうしながら、実のところ私たちは楽しんでいたのだ。学ぶということを純粋に幸せに思える年齢になっていたのだろう。
 最初の1年は言われることの意味がよく分からず途方に暮れ、2年目には理解はできるけれども、なかなかそうはいかないというジレンマに陥った。千字原稿も書くようになった3年目は何かつかめそうな気配が漂い、4年目には絶対、「文句なし」の言を頂こうとの意気込みで書き続けた。
 ありがたかったのは、どの師も未熟な私たちに真正面から取り組んでくださったことである。だからこそ、ついに「秀作である」と言われたときには心底うれしかった。書くということは何と素晴らしいことかと、体感していた。規定の字数に収めようと悩んでいたことが、うそのようであったし、それよりも、600字、千字の中に自分の世界をつくる、自分らしい言葉を生みだすことに喜びを見いだしていた。
 4年が過ぎ、卒業しなければならなかった日、私は涙が止まらなかった。この地が遠くなるのが、もう講評を頂けなくなるのが、悲しくてならなかったのだ。
 諸先生の真剣に教授してくださるまなざし、笑顔が浮かんだ。恐ろしいほどカチカチに凍った雪路を喫茶店へ繰り出した夜、上体を何度も泳がせる私に、慣れた足取りで歩きながら笑いこけた仲間とも別れなければならなかった。
 あの夜、7人もいるのに頼んだ飲み物が一つとして同じものがなく、「それぞれの書くエッセーが皆違うわけだわ」と言った彼女は、レモネードを飲んでいた。さわやかな品の良い文を書く人だった。プンゲンストウヒの美しい帯広の庭園を書いた私のエッセーは、コーヒーの香りがしたのだろうか。

帯広で開かれた「藤原ていさんのエッセー教室」の受講生らと記念撮影(後列左から9人目、藤原さんは前列中央)=1996年
帯広で開かれた「藤原ていさんのエッセー教室」の受講生らと記念撮影(後列左から9人目、藤原さんは前列中央)=1996年
 数年後、札幌の道新文化センターで1年間小説を、次いでシナリオを学んだ。小説の同人「河の会」にも入った。仲間内でも講評し合う。「それがどうした」と言われる時も、それを上回る酷評を受ける場合もある。普通ならめげそうなものだが、帯広で4年間鍛えられた身だから、何のことはない。それどころか、あのころを思い出し楽しくて仕方がなかった。ありがとうの気持ちでいっぱいだ。
 いくつか賞も頂いた。北海道ラジオの会主催の「第1回北のシナリオ大賞」を受賞し、私の脚本がラジオドラマ化されることになった。初めての打ち合わせが札幌のHBCであり、演出をしてくださる守分寿男先生に会った。芸術祭優秀賞を幾度も受賞された演出家である。
 守分先生の下で脚本の書き直し作業が始まった。書けども書けども、OKが出ない。よれよれになりながら書き続けた。多分、6本目だったと思うが、「ご苦労さまでした、楡木さん」という言葉で受け入れていただいたとき、何とも言えない幸せな気持ちが私の心を満たした。書き直しの連続は、はたから見るとたいそう悲壮に映ったらしかった。ところが、私は先生をてこずらせておいて申し訳ない話だが、その作業を苦しみながら、やはり楽しんでいた。これは、帯広が培ってくれた大きな財産だと思っている。
 役者さんのセリフが入り、音も音楽も入り、編集作業も終わり、いよいよ関係者だけでデモテープを聴くというとき、先生が一番前にいすを一つ置き、ここに座るようにと言ってくださった。頭を垂れて聴く私の眼から涙が、鼻から鼻水が盛大に出て、後ろに座っていらっしゃる方々には、何とにぎやかなおばさんだと思われたに違いない。
 今、NPO日本朗読人協会の一員となり、自分の書いた小説を朗読で表現しようという夢も追っている。この年になっても、まだ夢追い人でいられるのは、「文章を書くとき、最初の行は1字下げる」という基本的なことすら気づいていなかった私を育ててくれた、藤原てい先生をはじめ、帯広の黒沼友一、高橋栄子両先生、今札幌にお住まいの姥沢隆司先生、やはり講師を務めてくださった北海道新聞帯広支社の歴代報道部長さんのおかげなのだ。特に栄子先生は女同士ということもあり、多岐にわたりご指導を仰ぎ、今も親しくさせていただいている。
 いつも両手を広げて私を待っていてくれた十勝の仲間たちには、ありがとうの気持ちでいっぱいだ。以前のように頻繁には会えないけれど、私の書くドラマのどこかに彼女たちがいる。

<略歴>
 ゆぎ・けいこ 1948年、滝川市生まれ。大学卒業後、航空会社に勤務し、結婚のため退社。93年から帯広で、作家の故新田次郎氏夫人藤原ていさんが講師を務める「藤原ていさんのエッセー教室」を4年間受講した。これをきっかけに、2001年から札幌の小説教室(朝倉賢講師)、シナリオ教室(菊地寛講師)で学ぶ。04年、「思い出したかぐや姫」で第1回北のシナリオ大賞(北海道ラジオの会主催)を受賞。翌年、HBCラジオで放送され、民間放送連盟ラジオエンターテインメント部門最優秀賞。09年にも「穴」で第6回北のシナリオ大賞を受けた。小説を対象にした銀華文学賞(アジア文化社主催)では、05年に奨励賞、06年に優秀賞、09年に「線路は続く」で第6回銀華文学賞を受賞。小説の同人「河の会」会員。日本放送作家協会会員。本名・鍋田啓子。札幌市 在住。61歳。

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