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道内外で活躍している地元ゆかりの人たちに、十勝への思いを語り、つづってもらいます。
1993年の春から4年間、私は帯広のエッセー教室へ通った。 当時、一人娘が大学に入学し、良くも悪くも娘べったりの母親であった私は、情けないことに「空の巣症候群」に陥っていた。ある日、「藤原ていさんのエッセー教室」という新聞記事が目に飛び込んできた。札幌にあまたの教室があろうに、ひかれるように申し込んだのは、ていさんの「流れる星は生きている」を思い出したからだ。戦後、旧満州(現中国東北地方)から26歳の作者が、6歳、3歳、1カ月の幼子を連れ、文字通り死線をさまよいながら、引き揚げて来た実体験に基づく小説である。その人に私は会いたくなったのだ。 最初の2年間は600字エッセーを書く。600字を超えても空白を残しすぎてもいけない。内心、そんなに都合よく収まるはずがないと思い、案の定、収まらなかった。何を書こうかということにも頭を悩ませた。やっと書き上げたものは、5人の先生が2人一組で講評してくれるのだが、「それがどうした」と無情にもバッサリ切られることも多々あった。途方に暮れた生徒たちは、互いの傷を癒やそうと帰路喫茶店に寄り、気炎を上げた。そうしながら、実のところ私たちは楽しんでいたのだ。学ぶということを純粋に幸せに思える年齢になっていたのだろう。 最初の1年は言われることの意味がよく分からず途方に暮れ、2年目には理解はできるけれども、なかなかそうはいかないというジレンマに陥った。千字原稿も書くようになった3年目は何かつかめそうな気配が漂い、4年目には絶対、「文句なし」の言を頂こうとの意気込みで書き続けた。 ありがたかったのは、どの師も未熟な私たちに真正面から取り組んでくださったことである。だからこそ、ついに「秀作である」と言われたときには心底うれしかった。書くということは何と素晴らしいことかと、体感していた。規定の字数に収めようと悩んでいたことが、うそのようであったし、それよりも、600字、千字の中に自分の世界をつくる、自分らしい言葉を生みだすことに喜びを見いだしていた。 4年が過ぎ、卒業しなければならなかった日、私は涙が止まらなかった。この地が遠くなるのが、もう講評を頂けなくなるのが、悲しくてならなかったのだ。 諸先生の真剣に教授してくださるまなざし、笑顔が浮かんだ。恐ろしいほどカチカチに凍った雪路を喫茶店へ繰り出した夜、上体を何度も泳がせる私に、慣れた足取りで歩きながら笑いこけた仲間とも別れなければならなかった。 あの夜、7人もいるのに頼んだ飲み物が一つとして同じものがなく、「それぞれの書くエッセーが皆違うわけだわ」と言った彼女は、レモネードを飲んでいた。さわやかな品の良い文を書く人だった。プンゲンストウヒの美しい帯広の庭園を書いた私のエッセーは、コーヒーの香りがしたのだろうか。